ユーゴスラビア紛争をわかりやすくまとめる!原因は何だったのか?

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どうもジローです。

11月29日、オランダ・ハーグの旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)でボスニア・ヘルツェゴビナ内戦での残虐行為の罪に問われていたスロボダン・プラリヤック被告(72)が、禁錮20年の判決を言い渡された直後、判事らの前で毒と思われる液体を飲み、自殺しました。

自らの身の潔白を死を持って示したプラリヤック被告には哀悼の意を捧げます。

さて、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦をはじめ、ユーゴスラビア紛争とはどのようにして起こったのでしょうか。

まとめてみました。

ユーゴスラビア紛争

ユーゴスラビア紛争は、旧ユーゴスラビア連邦解体の過程で起こった異民族間の対立による内戦です。

紛争の期間は1991年から2000年まで主要な紛争が継続しました。
ちなみにユーゴスラビアとは「南のスラブ民族の国」という意味のことです。

ユーゴスラビアは、7つの国境を持ち、6つの共和国があり、5つの民族が住み、4つの言語を話し、3つの宗教2つの文字1つの国家がありました。

多民族国家のユーゴスラビアでは、第2次大戦時にはドイツ、イタリアに支配されていましたが、戦後にパルチザン勢力を率いる指導者のヨシップ・ブロズ・チトーによって独立を果たしました。

パルチザンとは、ユーゴスラビア共産党によって組織された非正規の軍事活動を行なうゲリラのことです。

チトーは1953年~1980年まで大統領だった方で、当時ユーゴスラビアは以下の6つの共和国から成っていました。

・スロベニア
・クロアチア
・ボスニア・ヘルツェゴビナ
・セルビア
・モンテネグロ
・マケドニア

6つの共和国は非同盟主義をとっていましたが、チトー大統領のもとで統一され、それなりにまとまっていました。
それはチトーの大統領としての腕力もありますが、当時は東西冷戦中ということもあり、共和国同士で争えばアメリカ、ロシアに付け入るスキを与えてしまう恐れがあったためです。

ですが、1980年にチトー大統領が死去し、東西冷戦が終わりを迎えると、ユーゴスラビアは分裂を始めます。

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ユーゴスラビアの分裂

まず、1991年にスロベニアが10日間の地上戦で独立を達成します。

次にマケドニア、さらにクロアチアと独立を果たします。
クロアチアは1995年まで激しい紛争を続けました。

1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナが独立を果たしますが、同国内で独立推進派のボシュニャク人とクロアチア人と、反対派のセルビア人とで意見が対立し、次第に事態が深刻化していきます。

3年半以上にわたりボスニア全土で戦闘が行われた結果、死者20万人、難民、避難民200万人を生む戦後ヨーロッパ最悪の紛争になってしまいました。

ユーゴスラビアの消滅

2003年には、ユーゴスラビアは「セルビア・モンテネグロ」と国名を改称します。

しかし、2006年にモンテネグロ議会が独立を宣言し、同時にセルビア議会も独立を宣言、
これにより88年間に渡って続いたユーゴスラビアは消滅することとなります。

まとめ

いかがだったでしょうか?

ユーゴスラビア紛争について、何か得るものがあったなら幸いです。

それでは!

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